急使

初めに

神奈川県横浜市の就労継続支援A型事業所ほまれの家横浜」の利用者である、KENくんさんから創作作品「急使」の投稿がありましたので掲載します。

急使

甲斐源氏武田の重臣である早名氏の領国は諏訪の国である。
ここには、京の戦乱を逃れた能や狂言、猿楽の役者たちが多く移り住み、独特の文化を形成していた。
早名氏の居城では、来るべき織田軍との合戦を前に重苦しい空気が支配していた。
長篠の合戦であまりにも多くの将兵を失っていたからである。
そこで、武田家に急使を送り援軍を請うことにしたが、軍議の席上、万座口を開く者はいない。
その時、家臣の一人が沈黙を破って奏上した。

「僭越ながら、殿に申し上げます。織田軍に気取られず、急使の役目を果たし得るものが一人だけ居ります。半兵衛これへ。」

家臣の傍らにいた半兵衛は厳かに早名公の前に歩み出た。

「ここにおわす半兵衛は、武術の腕も確かで、兵法の心得もひとかどの者であります。必ずや、急使の役目を果たし、武田家より援軍を授かって参りましょう。」

早名公は喜んで半兵衛に急使の役目を託した。半兵衛はその日の夜に、忍びのごときいでたちで諏訪を発った。

半兵衛が小高い丘の上からあたりを見回すと、遠くに火が灯っているのが目に入った。
やがてその火の周りに幾つもの火が現れ、半兵衛が思わずあっと声を上げようとしたときに、それらの火は一時に消えた。
織田の先鋒数千が、視覚で確認できるほど近くに鳴りを潜めていたのだ。
半兵衛は甲斐路への足取りを速め、暗闇の中を進んだ。

翌日の昼過ぎに半兵衛は甲斐へたどり着き、武田家のご家老に面会を許され早名公より託された書簡を手渡した。

「それがしがここへ来る途中、小高い丘の上から周囲を見渡したところ遠くにいくつもの火が灯って居りました。織田軍の先鋒数千と思しきものが視覚で確認できるほど近くに迫っております。先の戦で諏方の軍勢の多くが討ち死にし、今、城に籠るは雑兵を含めて千にも満たぬ有様でございます。このままでは、諏訪の城は半日と持たず落城いたしましょう。諏訪の地は甲斐への要衝、勝頼公より援軍を差し向けられたく、それがしが参りました。勝頼公によしなにお取次ぎを願い申す。」

ご家老は、

「あい分かった。」

と力なく答えた。
武田家には最早援軍を差し向けるだけの余力はなかったのである。
半兵衛の説得は熱を帯び三日三晩に及んだ。
しまいには「勝頼公より援軍を賜れなければ、ご家老の前で死を以て致さん」とまで迫った。
事ここに及んでご家老は始めて不快な表情を浮かべ、

「そなたの熱意は十分にそれがしに伝わった。そなたは案ずることなかれ。」

とだけ言い残し、奥へ下がってしまった。

急使の役目を果し得ず、半兵衛は重い足取りで諏訪へ向かった。
その夜は濃い霧が立ち込めていて月明りも射さず、やんぬるかな、半兵衛は山中で道に迷い足を滑らせ奈落の底に落ちて行った。
半兵衛の脳裏には幼いころからの記憶が走馬灯のように蘇り、やがて深い虚無に包まれた。

それから何日経っただろうか、半兵衛が山里の小屋で目を覚ますと、枕元には見知らぬ娘が炊き立ての麦飯の茶碗を手にして立っていた。

「ようやく目を覚まされましたね。あなた様は六日間も眠り続けていたのですよ。」

娘はそう言って麦飯の入った茶碗を差し出した。

「ここはあなた様が足を滑らせた山の麓の村です。住民はやっと百人といったところでしょうか。お好きなだけここでおくつろぎくださいませ。」

娘は大変な器量良しで慈愛に満ちていた。半兵衛は娘と言葉を交わすうちに娘に心惹かれていった。
娘も徐々に半兵衛に心惹かれていった。
二人はいつしか恋に落ちて行った。
半兵衛はここで寺子屋を開くことを思いついた。
一月後には娘との祝言が予定された。

だが、この静かな山里の生活も長くは続かなかった。
織田の軍勢がこの小さな山村に攻め入って火を放ったのだ。
村は騒然となり、娘と半兵衛は離れ離れになってしまった。
半兵衛は村から村へと訪ね歩き娘の消息を探し続けたが手掛かりはなかった。

それから何年経っただろう。
半兵衛はある山里の村を訪れた。
そこはかつて半兵衛と娘が暮らした村の廃墟だった。
僅かばかり残った小屋を訪ねると中から初老の男が出てきた。
半兵衛はこの男にどこかで会ったような気がしたが、思い出すことはできなかった。
男に娘の消息を尋ねると、男は小屋の中から小さな箱を取り出して半兵衛に手渡した。

「この箱は村一番の器量良しの娘さんが祝言の日に夫となる人に手渡すはずだった箱です。中に何が入っているのかは、私は存じません。娘は織田軍の雑兵共に手籠めにされて死にました。愛する夫となる人の名前を叫び続けながら。もしかすると、あなた様の探しておられる娘さんだったかもしれませんね。」

半兵衛は無言で諏訪への帰路に就いた。

国破れて山河在り。
町の様子は様変わりしてしまったが、山や川は昔のままだった。
諏訪の合戦は早名公をはじめ、皆ことごとく討ち死にして終わっていた。
道行く人は半兵衛に貴人にするような挨拶をした。
半兵衛は恐縮した。
半兵衛は皆の菩提を弔うために諏訪神社に参拝した。
神社の境内で半兵衛が箱を開くと、中には鏡が入っていて、老人の顔が映っていたのだった。

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