世界の見方が変わる? 科学と感覚のズレを解くカント哲学
こんにちは。最近、哲学に興味を持ち始めた哲太です。「それって言う必要がありますか?」が口癖のくせ者です。
前回のブログで書いた
「それはあなたの感想ですよね?」
ヒュームの哲学に触れると、この一言が、急に重たく感じられるようになります。
- 炎に触れれば熱い、
- 朝になれば太陽が昇る、
- 石を手から離せば落ちる。
私たちはこうした出来事を、疑うことなく「事実」だと思って生きています。
けれどヒュームは、そうした確信に、静かに問いを差し込みました。
それは本当に事実なのか、それとも、これまで何度もそうだったから信じている「感想」なのではないか、と。
因果関係も、科学の法則も、よく考えてみれば、経験の積み重ねから生まれた思い込みにすぎないかもしれない。
ここまで聞くと、少し不安になりますよね。
では、この世界は信用できないのでしょうか?
勉強する意味はあるのでしょうか?
科学も仕事の判断も、すべてがグラグラした土台の上に立っているのでしょうか?
この不安に、真正面から向き合った哲学者がいました。
それが、ドイツの哲学者イマヌエル・カントです。
カントは、ヒュームの問いを否定しませんでした。
むしろ「その通りだ」と受け止めたうえで、それでもなお、なぜ人は考えられるのか、なぜ科学は成り立っているのかを、徹底的に考え抜いたんです。
今回のこのブログは、カント哲学の前編として、カントが「感想だらけの世界」で思考が壊れない理由を、どうやって見つけたのかを、できるだけやさしく、丁寧にたどっていきます。
ヒュームに叩き起こされた男、カント

「わかったつもり」で眠っていた
カントは、もともととても真面目な学者でした。
理性を使えば、世界の仕組みはきちんと説明できるはずだ、そう信じて本を読み、考え続けていた人です。
ところがある日、ヒュームの本を読んで、強い衝撃を受けます。そのときのことを、カントは「独断論的なまどろみから目を覚まされた」と表現しました。
これは、自分はもう世界のことがわかっているつもりで、安心して眠っていたけれど、ヒュームの言葉によって、はっと目が覚めた、という意味です。
たとえば、テスト勉強をしないまま「まあ大丈夫だろう」と思って眠り、翌日のテストで思ったように点が取れず、「わかったつもりだった」と気づく瞬間がありますよね。
カントにとってヒュームの哲学は、まさにそのような「目覚まし」だったんです。
ヒュームの問いが残した不安
ヒュームは、因果関係について、こう考えました。
石を手から離したから床に落ちた、と私たちは自然に思いますが、その「だから」というつながりは、実は目で見たことがない。
何度も同じ順番で、同じことが起きたから、頭の中で結びつけているだけかもしれない。この考え方を受け入れると、ある不安が生まれます。
もし因果関係が感想にすぎないなら、科学はどうなるのか。昨日まで正しかった理論が、明日も正しい保証はなくなってしまうのではないか。
それでも私たちは、科学を信じ、仕事をし、予定を立てて生きています。
この現実とヒュームの指摘のあいだにあるズレ。ここに、カントは強い問題意識を持ちました。
たとえば「この道を通れば、いつも早く着く」と信じていたのに、ある日たまたま工事で通れなくなり、「絶対」だと思っていたことが、ただの経験からの思い込みだったと気づくことがあります。
ヒュームの問いは、こうした日常の感覚を、哲学のレベルで突きつけてきたんです。
否定ではなく「引き受ける」
大切なのは、カントがヒュームを否定しなかったという点です。因果関係はちゃんと存在する、と反論したのではありません。
カントは、こう考えました。
もしヒュームの言う通りだとしたら、それでも、なぜ人は同じように世界を理解できるのだろうか。
人によって見え方も考え方もバラバラなら、科学も会話も成り立たないはず。それなのに、私たちはある程度、同じ世界を共有しています。
たとえば、教室で同じ黒板を見ているとき、座っている場所が違っても、書いてある文字を同じ内容として読めますよね。
カントは、この「同じように理解できる理由」を、人間の頭の中に探そうとしたんです。
人間の頭には「世界を見る型」がある

世界をそのまま見ていると思ってない?
ここで一つ、想像してみてください。
もしあなたが色のついたメガネをかけていたら、世界はどう見えるでしょうか。
青いレンズなら、景色は少し青っぽく見えます。でも、世界そのものが青くなったわけではありません。見え方が変わっただけです。
私たちは普段、このメガネの存在を意識していません。だから、見えている世界がそのまま現実だと思い込んでしまいます。
ゲームの画面を「夜モード」にすると、全体が暗く見えることがありますよね。でも、ゲームの世界そのものが暗くなったわけではなく、表示のしかたが変わっただけです。
カントは、私たちが世界を見るときも、これと似たことが起きていると考えました。
因果関係は「世界の中」にあるの?
ヒュームは、因果関係を疑いました。
炎に触れた、そのあと熱かった。でも、その間にある「必ずそうなる力」は、どこにも見えません。
カントは、この指摘をそのまま受け止めました。
そして、因果関係は世界の中に見つかるものではなく、人間が世界を見るときに使っている頭の仕組みなのではないか、と考えたんです。
私たちは、世界をバラバラの出来事として見ているのではなく、最初から原因と結果という形で整理しながら見ている。だから、そう見えているんだ…と。
たとえば、ドミノ倒しを見ているとき、最初のドミノが倒れたから次も倒れた、と自然に理解しますよね。実際には、順番に倒れているのを、私たちの頭が「つながり」として整理しているんです。
人間に共通する「見方のルール」
もし、この見方が人それぞれバラバラだったら、どうなるでしょうか。
ある人には原因が見え、別の人には見えない。それでは、科学も話し合いも成立しません。
でも実際には、多くの人が似たような形で世界を理解しています。
・石を離せば落ちる、
・雨が降れば濡れる、
・スイッチを押せば電気がつく。
この共通性こそが、カントの注目した点でした。
因果関係や時間の流れ、空間の広がりは、世界そのものではなく、人間が世界を理解するために共通して使っている「型」なのではないか。
鬼ごっこが成り立つのは、みんなが同じルールを共有しているからです。
もし人によってルールが違えば、すぐに混乱してしまいます。
世界を見るときも、それと同じように、共通のルールがあるからこそ、理解が成り立っているのです。
『純粋理性批判』は「考えていい範囲」を決めた本

「批判」という言葉の誤解
『純粋理性批判』というタイトルを聞くと、少し身構えてしまいますよね。でも、ここでいう「批判」は悪口ではありません。
理性はどこまで使えて、どこから先は使えないのか。その性能をきちんと調べよう、という意味です。
新しい自転車を買ったときに、どんな道なら安全に走れるか、どんな道は危ないかを確かめるようなものだと考えると、イメージしやすいかもしれません。
答えが出ない問いの正体
カントは、あるタイプの問いに注目しました。それは、
世界には始まりがあるのか、それともずっと昔から続いているのか。
という問い。
どちらにも理由がありそうですが、どちらかを完全に証明することはできません。
カントは、これは答えが出ない問いなのではなく、そもそも人間が答えを出せる範囲を超えている問いなのだ、と考えました。
たとえば「地球の一番端っこはどこか」と聞かれても、地球が丸い以上、うまく答えることはできません。
質問のしかたそのものが、現実に合ってないんです。
次に進むための準備
カントは、こうして理性の限界をはっきりさせました。
そして、その限界の向こう側にある、人間には認識できない世界を「物それ自体」と呼びました。
考えられないものがある。だからこそ、どう生きるかを決める必要がある。
泳げない場所がわかっているからこそ、安全な場所で安心して泳げます。カントは、考えられない場所を知ることで、考えられる場所を守ろうとしたんです。
まとめ

ヒュームは、私たちの「当たり前」を揺さぶりました。
因果関係も科学も感想かもしれない、という指摘は、とても鋭く、少し怖いものです。
カントは、その怖さから目をそらしませんでした。
理性には限界がある。でも、その限界をきちんと知れば、思考はむしろ安定する。
今回のカント哲学前編では、その土台となる考え方を見てきました。
次回の後編では、「考えられない世界」を前に、人はどんな行動原理を持てばいいのか。カントが示したもう一つの答えを、やさしくたどっていきます。
【参考資料】
世界のエリートが学んでいる 教養書必読100冊を1冊にまとめてみた(KADOKAWAオフィシャルサイト)
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※このブログは、神奈川県横浜市にある就労継続支援A型事業所「ほまれの家横浜」の哲太が執筆しました












